所在地:大阪市中央区法円坂2
写真/中原文雄 文/松本正行

難波宮跡の近く、上町交差点の北西角に建つ大きな碑――。大村益次郎殉難碑(写真上)は紀元2600年(昭和15=1940年)の節目に、近代日本軍の創始者を顕彰する目的でつくられました。
長州藩出身の大村は藩の軍制改革を推し進め、戊辰戦争では司令官補佐として活躍。兵部省の事実上の最高責任者(トップは皇族)となり、日本軍の礎を築きました。しかし、明治2(1869)年に京都で攘夷派志士の襲撃を受けてしまいます。大阪に移され浪華仮病院に入院したものの薬石効なく亡くなったのでした。享年44。その浪華仮病院のあった場所が、いまの大阪医療センターです。
そもそも大村は小さな村の医者でしたが、緒方洪庵の適塾に学び、塾頭まで務めています。幕末でなければ医者として一生を終えたことでしょう。そんな彼の蘭学・洋学の知識を時代が求めます。軍の制度を研究するようになり「青写真」を描いたのでした。
実は、彼が亡くなった浪華仮病院は緒方洪庵の息子・惟準(これよし)が設立にかかわっています(初代院長)。明治政府による本格的な医学教育機関で、いまの阪大医学部につながり、最初につくられた大福寺(天王寺区上本町4。写真下)には記念碑が建っています。「亡くなった場所」というだけでなく、大村と大阪そして浪華仮病院には深い縁があったわけです。

中原文雄
1948年生まれ。建築工房日想舎 主宰。NPO法人まち・すまいづくり会員。
松本正行
1965年生まれ。ライター・編集者。NPO法人まち・すまいづくり会員。
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