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大阪墓ものがたり〜うえまち編(5)  志摩太郎

Posted on 2025年10月23日2025年10月23日 by うえまちウェブ編集者

住吉区その2~帝塚山古墳群

二本松古墳(つづき)

 この古墳は「二本松」という名がついていますが、一本松や二本松など「◯本松」という地名は死骸を放置した場所を示している場合があるという説があります。

 鎌倉時代あたりまで、神道のみならず仏教でも「死」は穢れたものとして扱われたようで、国宝である平安時代の『餓鬼草子』にも、松などの樹木が植わった小塚の周りに野ざらしにされている死骸の絵がたくさん描かれています。風葬、鳥葬、獣葬としたのでしょう。京都の「鳥辺野(とりべの)」や「化野(あだしの)」がその野ざらし葬送の地として有名です。

 また大阪の「阿倍野」などもそうであったのではないかとの話があります。大古には阿倍野の地に亡骸(なきがら)を捨てに行っていたようで、鎌倉時代には四天王寺と住吉大社がその領地境界である阿倍野堺において、どちらが死体を遺棄したかで揉めて裁判になったことがあった、と住吉大社の小出禰宜からお聞きしたことがあります。

 中世には現在のような葬送形式は確立されておらず、石塔などもほとんどなく、松や檜などの樹木を墓標としたようです。鎌倉時代の『明月記』には棺を運んだ天秤棒「朸(おうご)」を切って立てたと書いてあります(『中世の葬送・墓制』水藤真)。

 もしかすると、二本松古墳も二本の松を立てて、葬送の場所として後年まで使用されていたのでこの地名がついたのかもしれませんね。

万代古墳

 二本松古墳から北西に向かうと周囲約700mの「万代池」があります。「昔は付近に人家はほとんどなく、魔物が住むと恐れられていたが、聖徳太子が曼陀羅(まんだら)経をあげてしずめたことから『まんだら池』がなまったものと伝えられている」(大阪市文化財保護課)そうです。
 この万代池の東辺に大正末期から昭和のはじめにかけて「共楽園」という大遊園地がありました。大阪相撲で大関を張った小染川友治郎(吉川友治郎)という人が創業し、たくさんの人が訪れていたようで、庄野英二氏もその思い出を語っておられます。しかし、たった100年ほど前の話ですが、もう人々の記憶には全く残っていません。
 我々も建物がなくなって更地になると、そこに何があったのか思い出せないことがよくあります。古墳も同じです。形がなくなると忘れ去られるのが人の常なのでしょう。だから我々は忘れ去られないように「墓」というものを建てるのかも知れません。

 この万代池の北側に平成16年(2004年)に発掘調査が行われた「万代(まんだい)古墳」があります。全長約35mの珍しい「帆立貝形前方後円墳」で、5世紀末から6世紀前半のものとされる円筒埴輪(はにわ)や人物埴輪、衣蓋形(きぬがたしき)埴輪、須恵器(すえき)が出土しました。残念ながらここもまったく痕跡がなくなっており、被葬者推定の手がかりはないようです。

大帝塚山古墳

 万代古墳から西へしばらく歩くと南海電鉄高野線「帝塚山駅」に行き当たります。その昔、周辺は「大帝塚」という名の字でした。

 かつて、「大帝塚」(もしくは「大玉手塚」)と、「小帝塚」(あるいは「小玉手塚」)と呼ばれた2つの古墳があって、現在残っている「帝塚山古墳」は西側にある「小帝塚」と呼ばれていた古墳だと考えられています。残念ながら、「大帝塚」は影も形もなくなりましたが、大阪市文化財協会が地籍図を使って検討し、「大帝塚山古墳」の位置を「帝塚山駅周辺」と推定しています。

 「大帝塚山古墳」自体は別荘地開発などで削られてしまいましたが、「小帝塚山古墳」の敷地は「住吉村」の村有地であったために開発から免れたのでした。遺跡が現在まで残っるのは本当に難しいことなんですね。
 ちなみに、帝塚山古墳の南側にある市立住吉中学校の敷地にも古墳の痕跡があったという記録もあるそうです。 

古墳時代の終焉

 うーん、どこも消滅してしまっていて、とても被葬者の特定どころではありませんね。現在、日本全国に約16万基の古墳が確認されているそうですが、古墳時代となると文献的資料も少なく、被葬者探しは難しいのかもしれません。

 大化2年(646年)には大和朝廷から「薄葬の詔(みことのり)」が発せられたと『日本書紀』あります。陵墓の制限や人馬殉死の禁止など、墳陵の造営が難しくなり、ここで古墳時代は事実上終わりを告げることになりました。そして、被葬者はどんどん忘れられていきます。

 また、この法律には「一所に定めて、収め埋めしめ、汚穢(けがらわ)しく処処に散りし埋むること得じ」と「死の穢(けが)れ」の拡散を避けようという目的もあったと考えられています(『墓と葬送の社会史』森謙二)。

「穢れ」についてはまた後述したいと思います。

 残念ながら古墳被葬者探索はあきらめざるを得ませんが、「うえまち台地」の南端地域にこれだけの、いや、もっと数があったのかも知れない古墳群が存在していたというのは驚くべきことです。我々の誇るべき遺産といえるのではないでしょうか。

<帝塚山古墳群メモ>
・弁天塚古墳  住吉区万代6丁目。南海電鉄高野線「住吉東駅」東100m。
・二本松古墳  住吉区万代東3・4丁目。「万代東3・4 万領会館」(万代東4-1-27)付近。
・万代古墳   住吉区帝塚山東1丁目付近。
・大帝塚山古墳推定地  南海電鉄高野線「帝塚山駅」周辺。


大阪墓ものがたり~うえまち編(1)  志摩太郎

Posted in 大阪墓ものがたり うえまち編Tagged 帝塚山, 被葬者, 餓鬼草紙, 阿倍野, 墓, 古墳
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