落語にはさまざまな職業が登場します。
演芸評論家の相羽秋夫さんならではの
切り口で落語国の仕事をみてみると……。
文/演芸評論家 相羽秋夫
1871(明治4)年に、前島密(ひそか)が郵便制度を始めるまで、日本の通信手段の主流は、“飛脚”であった。平安末期に源流を発する飛脚制度は、鎌倉期に入ると幕府が鎌倉に、西国に目くばりをする六波羅探題(ろくはらたんだい)が京都市東山区あたりにつくられ、両者で頻繁に文書の交換が行われた。これを「鎌倉飛脚」もしくは「六波羅飛脚」と呼んだ。
この文書を運ぶ人を飛脚、または脚夫と称した。これが江戸期に入ると、さらに発展を遂げ、江戸と京・大坂間を主軸に、全国的に通信網が整備されることになった。
徳川幕府公用のものを「継(つぎ)飛脚」と言った。東海道五十三次の宿場をリレーして届けられた。ウナ(至急電報)の場合は、ノン・ストップで届けられた。これを「通し飛脚」と言う。
参勤交代で江戸に詰める諸国の大名と、それぞれの居城を結ぶ「大名飛脚」は、経費高のため、次第に次に述べる「町飛脚」で代用されることになった。
民間でつくられたのが「町飛脚」で、脚夫を抱える飛脚問屋(飛脚屋)が元締になって、仕事をこなした。これには、大きく3コースがあり、毎日のように江戸と京・大坂を往復した「定(じょう)飛脚」。月に3度だけ往復した「三度飛脚」。この時に飛脚が被った笠から名付けられたのが三度笠だ。さらに、「順番飛脚」があった。
いずれも手段としては、駆け足や馬が主だが、船を利用する場合もあった。『明石飛脚』という古典落語は、地名が出てくる関係で上方落語のみの珍しい噺だ。
大坂の飛脚が明石まで手紙を届けることになる。大坂・明石間15里(60km)と教えられた飛脚、尼崎まで走り続け、すれ違う人に「大坂から明石まで何里?」と尋ねると「15里」との返事。「まだ15里もあるか」と神戸まで走り、ここで同様に聞くとまたもや「15里」との答え。さらに走り続け、明石の人丸神社に到着すると、疲れのため寝てしまう。翌朝起こされ「ここはどこや」と問うと「明石や」と聞いて飛脚「寝てたほうが早よう着くがな」。郵便制度確立後も、飛脚は“便利屋”の名でわずかに生き残るが、コンピューターの出現で、郵便も危うくなっている。通信手段も継飛脚のようだ。
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