落語にはさまざまな職業が登場します。
演芸評論家の相羽秋夫さんならではの
切り口で落語国の仕事をみてみると……。
文/演芸評論家 相羽秋夫
禁足を命じられた道楽者の若旦那は、丁稚の定吉をだまして家を抜け出し、お茶屋遊びにふけっている。それを知った番頭は、このままでは店がつぶれてしまうと、若旦那を殺すことを考える。土橋の蔭にかくれて斬りかかる、というところで夢から覚めた若旦那、自分の非に気づき、番頭に詫びる。
「あの夢が本当なら、主殺しは重罪なので番頭は死刑になっていた」と若旦那が笑い顔で話すと、側で聞いていた定吉が泣き始める。定吉「うちのお父っつぁんは、重罪(十罪)どころか大和の萬歳(万罪)だ」。
年始に各家庭を廻わり、その年の家内安全と繁栄を祈る祝い歌を唄って、金や米を貰う職業を萬歳と言った。
太夫(たゆう)と才蔵(さいぞう)の2人1組で行動した。平安・鎌倉・室町期の千手(せんず、せんじゅとも称する)萬歳が原点である。江戸期に大和(奈良県)、尾張(愛知県)、三河(同)、秋田など各地に点在するようになった。
明治期に入り、大阪の卵商人、玉子屋円辰(えんたつ)が、仕入れ先の尾張でこの芸を見て、大阪の寄席で演ずるようになった。この寄席芸を万才という略字で表現するようになる。
さらに昭和初期、歌舞音曲らが中心の万才芸を、横山エンタツ・花菱アチャコが、おしゃべり中心の芸に変えた時に、所属していた吉本興業によって漫才という漢字に改められた。それから現在まで、娯楽芸のトップを走り続けている。
1970年代の漫才ブームの頃、MANZAIとローマ字で表記することもあった。賞レース「M―1グランプリ」のMは、このMANZAIのMである。
萬歳は、今も各地で郷土芸能として生き続けており、各家庭を廻る門付芸(かどづけげい)も健在である。まさに「万万才(ばんばんざい)」である。
#うえまち台地 #上町台地 #大阪市 #落語 #職業 #漫才 #萬歳 #漫才