うえまち新聞うえまちwebの新連載企画です。乞うご期待。
大阪墓ものがたり〜うえまち編 志摩太郎
<ぷろろーぐ>
私たちの住む大阪には「大坂」と表記されていたころからの墓石や慰霊碑がたくさん残っています。歴史上名を残した人も数えきれません。そして、その人々が安らかであるかどうかは別として、今もこの地に眠っておられるのです。
友人の訃報がちょくちょく届く年齢になって、いささか「老いと死」について考えていたある日、あろうことかこの出不精の私が、暇に飽かせてそのたくさん大阪に残っている遺跡を巡ってみようかと思い立ってしまいました。
お墓の前に立って手を合わせれば、埋葬されている方がもしかすると何か私に「ものがたってくれるのではないか」などと妄想もしながら。
思い立ったのは良いのですが、公共交通手段しか利用できない身としては、雨あり風あり暑さ寒さあり、不便な場所あり、なかなかたいへんなものだとしばらくたって気付いてしまいました。まあ、急かず、焦らず、ぼちぼちと記していければいいか、と自分自身に言い聞かせつつ、手始めに大阪市内「うえまち台地(上町台地)」から記し始めてみようと思います。
さて、古から大阪/大坂の中心であった「うえまち台地(上町台地)」は、古代、西に難波の海(大阪湾)、東に河内湾(河内潟)に挟まれた中を南北に延びていた半島のような形状の台地、丘陵地でありました。鶴見区でクジラの骨も見つかっているそうですので、河内湾は塩海だったのですね。
後に、突き出した台地の北端から北の対岸(今の新大阪駅近辺ではないかといわれています)に向けて「天満砂洲」とも「長柄砂洲」とも呼ばれる砂洲が成長して北向かいと地続きとなり、東西の湾の海水が堰き止められて、弥生時代頃には東側の「河内湾」は「河内潟」となり、淀川、大和川の流れにより淡水の「河内湖」となりました。また台地の西側も海に向かって「難波砂洲」が広がっていき、こうして長い時間をかけてだんだんと大阪平野が形成されてきたのだそうです。
今を生きる我々には八尾あたりから寝屋川や枚方、高槻あたりまでもが広大な海、後には湖であったなんてとても想像もできないことです。
前説が長くなってしまいましたが、このかつての「うえまち台地」範囲は北端が現在の大阪城周辺、南端が住吉大社とその南側地域周辺とされています。現在の住吉区の東側は「我孫子台地」というまた別の台地だそうですので、この稿は住吉大社周辺(住吉区の西地域)から北へ北へ、大阪城周辺までとその隣接地域界隈を巡っていきたいと思います。
初回にご紹介するのは住吉区。古墳もお墓ということで、有名な「帝塚山古墳(てづかやまこふん)」とあまり知られていない「帝塚山古墳群」から始めてみたいと思います。ご期待に添える内容になるかどうかはわかりませんが、とりあえず、乞うご期待。

連載中の「相羽秋夫のらくごハローワーク」、「上町台地名所図会」、「注目のうえまち人」等もまだまだ続きます。よろしくお願い申し上げます。