落語にはさまざまな職業が登場します。
演芸評論家の相羽秋夫さんならではの
切り口で落語国の仕事をみてみると……。
文/演芸評論家 相羽秋夫
奈良・平安期に、神社、寺院、宮殿などの建設を担当した部門を木工寮(もくりょう)と言い、所属の木工を統率する人を大工と称した。この長官名が、今日の大工と呼ばれる職業の発祥である。大工の下で働く木工は、少工(小工)と呼んだ。
江戸期に創られた落語『大工調べ』では、少工も大工と呼び、本来の大工は棟梁(とうりょう)と言っている。演題の“調べ”とは、吟味・裁き(裁判)の意味である。
腕は良いが少し頭の弱い大工の与太郎が、仕事場に出て来ないので、心配した棟梁の政五郎が長屋を訪れると、家賃を滞納したため家主(いえぬし)に道具箱を取り上げられたことが分かる。政五郎は、手持ちのお金を出してやるが、家主は「少し足りない」と言って、道具箱を返してくれない。そこで政五郎が家主の所に出かけ、「今日は急なことなので、改めて不足分を持ってくる」と掛け合う。しかし家主は頑(がん)として聞き入れない。怒り心頭に発した政五郎は、事の次第をしたためて奉行所に訴え出る。
お裁きとなり、双方の言い分を聞いた奉行は、政五郎には不足分を全額支払えと命ずる。家主に対しては、「道具箱を預かることは、質屋のする行為だ。その鑑札のないおまえに資格はない」と咎める。さらに、道具箱を与太郎に戻し、取り上げていた期間の大工の手間賃として、与太郎がためていた家賃以上の額の支払いを命じて、一件落着となる。奉行が政五郎に「徒弟を思いやる心に感服した。さすがに大工は棟梁(細工は粒々)」と誉めると、政五郎「へぇ、調べ(仕上げ)を御覧(ごろう)じろ」。
現代では個人業から、大工を在籍させ仕事の受注をする比較的規模の小さい工務店や、大手総合建設業者(ゼネコン)などに変貌した。古代の宮大工組織からゼネコンに成長したのが大阪市天王寺区にある(株)金剛組である。かつて筆者は、この会社で講演の機会を得たことがある。
ちなみに大合唱で新年を迎えるのは、“第九”である。
#うえまち台地 #上町台地 #大阪市 #落語 #職業 #大工調べ