落語にはさまざまな職業が登場します。
演芸評論家の相羽秋夫さんならではの
切り口で落語国の仕事をみてみると……。
文/演芸評論家 相羽秋夫
1957(昭和32)年に「売春防止法」が施行されるまで、遊女(花魁=おいらん・女郎・娼妓・傾城=けいせい)は公認の職業であった。と言っても、江戸幕府を開設した徳川家康は、吉原のみを公認し、五街道の出発地の品川・新宿・板橋・千住の四宿(ししゅく)を準公認とした。他の岡場所(江戸で50ヶ所)や夜鷹(よたか)は私娼で、取り締まりの対象にあった。
この吉原が舞台の古典落語は多くあるが、その一つに『お茶汲み』がある。
若い男が集まって吉原の遊女を買いに行こうと話がまとまる。中の一人が遊女のこんな話を披露する。「顔を眺めるなり悲鳴をあげ、“あんたは、私とかけ落ちし、すぐ死んだ男にそっくりだ。私はあんたをその男と思い尽くすので、あんたも見限らず通って欲しい”と言って泣きくずれた。よく見ると、湯呑のお茶を目に塗って涙に見立てていた」と、遊女のしたたかさを明かす。
それを聞いた男の一人が、その夜吉原に行く。くだんの遊女を呼び、部屋に入ってくるなり悲鳴をあげ、「おまえは、かけ落ちして死んだ女と瓜二つだ。年期があけたら女房になってくれ」と涙声で迫ると、女は立ち上がり「お茶を汲んで来てあげる」。
吉原の最盛期には、遊女3000人が所属していた。当然、階級があった。下から、15歳までの客を取らない少女の禿(かむろ)。客の呼び込みや遊女と対面までの世話をする番頭新造。客を取る振袖新造。ここから花魁の敬称が付く部屋持ち。座敷持ち。さらには昼三。最高峰の店に数人しかいない呼出し昼三のヒエラルキーが確立していた。料金も、振袖新造の1万5000円ぐらいから、昼三の15万円まで、幅が広かった。特に呼出し昼三は、芸妓や幇間との遊興代や飲食代を合わせると、一晩で100万円を超したという。
そうした高級遊女は、「初会」は会話のみ。2回目の「裏を返す」時は飲食が主体。3回目に初の床入りとなる。そして遊郭では、接するのはこの遊女のみに限られた。つまり、疑似夫婦となり、他の遊女との浮気は許されなかった。
性の遊びにも厳しい規律があった。性は聖なり、である。
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