住吉区その3〜神職のお墓と住吉大社と遠里小野(おりおの)<前編>〜

住吉といえばやはり一番有名なのは「住吉大社」でしょうか。
摂津一之宮であり全国約2300社余の住吉神社の総本社である「住吉大社」。毎年約200万人の人が初詣に訪れます。
鎮座は神功皇后摂政11年(西暦211年)とされ、神功(じんぐう)皇后への神託により、摂津国住吉郡の豪族である田裳見宿禰(たもみのすくね)が、底筒之男命(そこつつのお)、中筒之男命(なかつつのお)、表筒之男命(うわつつのお) の住吉三神を祀ったことに始まるとされています。後に神功皇后もご祭神となって、域内に住吉造(すみよしづくり)の4つの本殿を擁しています。その本殿はすべて国宝となっています。

ところで私たちは、住吉大社はもちろんのこと「神社」という場所でお墓を見たことがありません。では、神主様はじめ神職の方々のお墓はどうするのでしょうか。私は昔から不思議に思っていました。
「死穢 (しえ)」という言葉があります。死の穢(けが)れのことです。神道の考えでは「死は穢れ」とされていて、穢れを「気枯れ」とも書き、「人の命が消え、生気が枯れたこと」を指すのだそうです。だから、死体やそれと接する遺族は死穢に染まっている。それが周囲に伝染すると考えられたため、清めないといけない存在だったのです。現在、葬儀のときに「塩をふる」のもこの「清め」からきています。神道では穢れを嫌うので、お墓が神社の敷地内に建てられることはありません。
「古代からの伝承では、氏族の神木に祖先を祀りそれを氏神としていたそうですが、実際の亡骸をどのように扱っていたかはわかりません。なかには誉田八幡宮のように御陵である古墳と神社が密接に関連して祭祀を続けているところも全国にはありますが。」と住吉大社の小出英詞禰宜からご教示をいただきました。
現在、ご神職の方々のお墓は霊園やお寺の墓地に建っています。ご神職のお墓には「○○家奥津城(おくつき)」や「奥城」「奥都城」とか記されています。「奥津城」 には外界から遮(さえぎ)られた奥域(おういき=お墓のこと) 、または柩(ひつぎ)を置く場所という意味があるのだそうです。また特徴として、神道墓では玉串を捧げ、お線香はあげません。そのため、香炉はありません。
ただし、こうしたお墓は徳川時代の寺請(てらうけ)制度が始まって以降のものしか見られません。檀家(だんか)制度とも呼ばれる徳川幕府の人民管理、キリスト教統制政策による寺請制度によって、神職の方々もお寺の檀家となり、お墓を建てなければならなくなったからです。

初代神主田裳見宿禰(たもみのすくね)を祖とする津守氏は住吉大社の宮司、神主として70代以上続いたという家柄です。もちろん神職ですので、その津守氏も古代、中世の墓は存在しません。摂津守(せっつのかみ)に補任されていた鎌倉時代の歴代神主でさえ墓というものは見当たりません。ただし、そのうち何人かは「神様」としてお祀りをされています。
住吉大社の境内には、境内社として初代田裳見宿禰を祀る侍者社(おもとしゃ) 、白河天皇の命により荘厳浄土寺を再建し、住吉大社中興の祖とされる第39代神主の津守国基を祀る薄墨社(うすずみしゃ)、源頼朝と姻戚関係にあり、国守明神として尊崇された第43代神主の津守国盛を祀る斯主社(このぬししゃ)、モンゴル襲来時の撃退祈祷や坐摩神社との抗争で権勢を得た第48代神主の津守国助を祀る今主社(いまぬししゃ)があります。


ちなみに国基、国助は歌人としても有名であったそうです。玉津島明神、柿本人麻呂と並び「和歌三神」のひとつとされる「住吉明神」の面目躍如というところでしょうか。「後拾遺和歌集」には国基の「薄墨に かく玉づさと 見ゆるかな 霞める空に かへる雁がね」という歌が載っており薄墨社の名前の由来となっています。
しかし、同じ鎌倉期から南北朝時代にかけてであっても、第44代神主の長盛(従兄弟である源義経を一夜泊めたという言伝えがあり、源氏勝利の鏑矢(かぶらや)譚で有名。「大神主」と呼ばれた)や、第47代神主の経国(つねくに。和歌の名手で藤原定家の「明月記」にも登場)、第51代神主の国夏(後醍醐天皇との関係を築き、後村上天皇を自邸内の正印殿に迎え、南朝の御座所である「住吉行宮(すみよしあんぐう)」を用意した)などは有名であっても霊神とはなっていないようです。
70人以上いた津守氏の宮司の中で、平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した3人だけが霊神となっているのは、やはり住吉大社を世に知らしめた功績者であったからということなのでしょうか。
なお、⼤阪市史料調査会におられた(現 花園大学准教授)⽣駒孝⾂氏によると、白河天皇の勅命により津守国基が再建したという「荘厳浄土寺」と住吉社が京の都でも知られるくらい有名になったのは、落慶供養の際、見物に集まったたくさんの群衆が池に落ちて死傷したという事件がきっかけとのこと。儀式に参加していた朝廷の役人や楽人がそのまま京に帰ってしまい、朝廷に「死の穢れ」を持ち込んだことで朝廷公務が行えなくなるほどの大問題に発展したからでした。
中世までは、神道だけでなく世間一般にも「死の穢れ」が忌み嫌われていたことがよくわかります。菅原道真に代表される「怨霊」への畏怖とも繋がっていたのかもしれません。ですから、鎌倉時代までは神に仕える方はもちろん、僧職の人たちも死に関わる行事に接することはなかったのだそうです。
仏教史家・松尾剛次氏の『鎌倉新仏教の成立』によると、南都六宗に代表される戒壇を受けた「官僧」は天皇に仕える国家公務員的な存在なので、穢れを忌避しなければならず、死の穢れにタッチしてはいけなかったといいます。いまでは当たり前の葬礼というものも、鎌倉時代、元官僧であった法然、親鸞、日蓮、道元などたくさんの僧が遁世(とんせい)して遁世僧の僧団をつくり、破戒僧とも呼ばれた彼らによって執り行われるようになったのだそうです。
ある結婚式に招かれた薬師寺の高田好胤管長が「南都六宗の僧は決して葬式を司らない。南都六宗の僧が死んだときには、浄土宗の僧が来て葬式を出してくれる。だから、私がここでスピーチするのは不吉ではない」と語られたというエピソードを、梅原猛氏が『日本人の「あの世」観』という本に書いておられます。
<後編につづく>
