高口真吾
1973年「バルナバ病院」生まれ。俳優を志し、大学卒業後、上京し、舞台俳優として活動。帰阪後、「一心寺倶楽」館長、一心寺文化事業財団理事に就任。劇場の運営を担う傍ら、劇作品のプロデュース、演出を手がけ、俳優としても出演している。「なにわ人形芝居フェスティバル」事務局長も務める。
1185年から上町台地に根をはる一心寺
天王寺駅界隈の「てんしば」や「茶臼山」に隣接する上町台地の中心地で、1185年(文治元年)、法然上人により開かれたという長い歴史を誇る一心寺。大坂冬の陣では、徳川家康がここに陣を敷いたことでも有名です。明治以降、「お骨佛の寺」としても親しまれ、近年は文化事業にも力を入れている同寺。そんな一心寺の文化事業団理事として劇場「シアター倶楽」の運営を担い、俳優としても活動する高口真吾さんの見る「上町台地」を語っていただきました。
上町台地は「小さい」ところが魅力!
―― 一心寺の前住職・現長老の高口恭行さんの三男として生を受けられた高口さんですが、お生まれになった病院も上町台地の産院だったんですか?
バルナバ病院です。お寺の人間ですが、生まれた病院は教会系なんです(笑)。
――その後、一心寺ですくすくと大きくなられて……。
小さいころは、境内でサッカーなどをして遊んでいましたね。茶臼山でもよく遊びました。今は外で遊ぶ子の姿もあまり見かけなくなりましたよね。昔は怒られても境内で遊んでいる子も多かった。
――そんな高口さんですが、一度上町台地を離れられたんですよね。
はい。大学卒業後、俳優の道を目指して上京しました。すぐに舞台の魅力にはまり、それから20年、東京で舞台俳優として活動していました。
――上町台地を外からご覧になられて、何か感じましたか?
「上町台地、こんないいところない!」って思いました。いい意味で「小さい」ところがいい。神社仏閣巡りが広い範囲で楽しめて、チンチン電車に乗って住吉大社に行くなんてこともできる。ハルカスやてんしばのような、近年生まれ変わった場所もあれば、道頓堀のような若者たちやインバウンドの方々を惹きつけるカジュアルなスポットもある。西成の風物もとても興味深い。
これらすべてが、がんばれば徒歩圏内で楽しめるなんて、こんな街、そうないです。
――東京にはない魅力だったんでしょうか。
東京も、六本木のような最先端シーンだけでなく、寺社巡りが楽しめたり、広い公園でくつろげたり、古い風情のある東京が残っているエリアももちろんあります。一つのエリアに一つの個性があるので、いろんな楽しみ方ができる。でも、それぞれ少し遠いんですよね。電車でたいてい1時間はかかる。
当時西東京に住んでいたのですが、東東京には「江戸風情」が残っているのは分かっていても、なかなか足が向かなかった。
――その後、大阪に戻ってこられたのは、何かきっかけがあったんですか?
一心寺の地下劇場「一心寺シアター倶楽」を私が継承しないと存続させる者がいない、という話になり、この事業はなくしてはならない、と戻ってきました。現在は、兄が住職を継ぎ、私は文化事業の運営をしています。地域の方々と連携して、イベントの企画・制作などもお手伝いし、地域貢献できればと、がんばっています。
――戻ってこられてすぐに行かれた場所など、覚えておられますか?
そうですね……。「魚治」っていう居酒屋ですかね。当時は25号線沿いにあったんです。大阪の味を求めて行った気がしますね。
――今の高口さんにとってのオススメスポットがあれば、教えてください。
今は入館はできませんが、大阪市立美術館前の広場が好きですね。テーブルと椅子を持って行ってぼーっとしていたいぐらい。現在は工事中ですが、洋風の建物の前から、通天閣方面を眺めると「ザ・大阪」という景色が広がっていて、そこに夕陽が落ちていく。一心寺のすぐそばなので、これまでもずっと見てきた景色のはずなのに、近すぎて良さに気づいてませんでした。桜が満開の4月の風景もいいですよ。
上町台地に本格的劇場! 「一心寺シアター倶楽」
――大阪に戻ってこられたきっかけとなった「一心寺シアタ―倶楽」ですが、お寺に劇場って、珍しいですよね。
もともとは、生花の競り市場だったんです。トラックヤードに大きなトラックが入って来て、競り落とした花を摘んで出荷されていってましたね。
生花市場が移転することになって、その土地を前住職の父が購入したんです。当初は参詣者用の駐車場にでも、と考えていたみたいですね。
――それが一転、劇場に。
1994年に、大阪府の「井原西鶴没後300年事業」の一環として、当時の桂枝雀さん主演、早坂暁さん脚本で劇の制作・上演が企画されたのがきっかけでした。会場として「既存の劇場ではなく、どこかユニークな場所を」と特設劇場を造ることになり、その場所として選ばれたんです。
――豪華俳優陣の劇が、あの場所で上演されたんですね!
当初は3年間の期間限定の劇場だったんです。期間中は、記念事業の劇以外にも、関西の劇団に利用してもらっていました。実は、私の初舞台も、この期間中でした。まだ学生で、上京を間近に控えていましたが、『女相撲ハワイ大巡業』という作品で、日系ハワイ人の役をくださいました。桂枝雀さんのお相手役の三林京子さんにはいろいろご指導いただきましたね。
――それが常設劇場になったんですね。
3年が経ち、いよいよこの劇場とお別れ、というときに、各劇団の方たちが『つぶさないで』『残すべきだ』と声をあげてくださったんです。「残すのであれば、ちゃんとした劇場を」と新しく建ったのが、今の「一心寺シアター倶楽」なんです。
――地下に劇場、上階には三千体の仏像たちが並んだ「三千佛堂」。内面を見つめる上階と、内面を表現する地階と、二面性がユニークですね。
世情から生まれた「なにわ人形芝居フェスティバル」
――1996年から続く「なにわ人形芝居フェスティバル」の事務局長も務めておられますが、どういう経緯で始まったんですか?
父が始めた事業を、父の想いとともに受け継いでいるのですが、前年の1995年1月に阪神淡路大震災が起こり、関西は暗いムードに包まれていました。さらに3月に地下鉄サリン事件が起きましたよね。特にオウム真理教のこの事件で、日本の仏教界は、既存のお寺が若者たちの受け皿になっていなかったことに衝撃を受けたんです。
そんな大きな問題を前にして何か始めないと、という機運が日本中で高まっていました。一心寺界隈でも、下寺町のお寺さんや私の父が手を取り合って何かしようとなった。戦後、町のみんなに元気をくれた人形芝居の光景を思い出した住職さんがいて、そこから“人形芝居”というテーマが固まりました」
――「うえまち夕陽丘写真コンテスト」もその流れで?
元々、「なにわ人形芝居フェスティバル」の風景を撮って送ってほしい、というところから始まったんです。現在はさらに上町台地をテーマに募集するようになりました。このエリアには撮っておきたい古いもの、いいものがたくさんありますからね。今では毎年300以上の力作が事務局に届いています。これだけ続けていても、「こんな風景が!」と新しい発見があっておもしろいです。
――次回は、2025年5月31日が締め切りですよね。またどんな「知られざる」上町台地の風景が届くか楽しみですね。
上町台地でお寺を営む者の宿命
――今後、上町台地はどうなっていくと思われますか?
上町台地は、大阪にとって、今よりもっとなくてはならない地域になると思います。
歴史や文化、お寺や神社など、守るべき遺産が多いのももちろんですが、防災の面でも非常に重要な場所ですから。高台に位置する上町台地で、大きな建物を抱えているからには、日ごろから考える義務がある、と思っています。もう、これは宿命です。
――そのお言葉は、地域の人々にとっても、とても心強いと思います!
震災直後の一時避難場所としての役割は、常に感じています。水のストックといった備蓄など、できることから始めています。
――大阪の皆さんにとっても、今後ますます「一心寺さん」はなくてはならない存在になりそうですね。文化的にも防災面でも支えていただいて、ありがとうございます!
高口さんのおススメのお店
「そばと酒 煩悩のかたまり 一瓢亭」
「煩悩のかたまり」という名前がいいでしょう? 店構えもゆるいし、店長さんもいい感じでゆるい。2020年にオープンという、『このご時勢で、今、開けるの?』というタイミングも店長さんらしい。10人も入ったらいっぱいになりそうなこじんまりしたお店で、昼はそば屋、夜は居酒屋なんですが、カジュアルだけどそばも日本酒もうまいんです。日本酒のコレクションがまたいい。『一瓢亭』というのは、かつて四天王寺さんの境内にあった有名なおそばやさんの名前で、その名を使わせてくれるよう頼み込んだらしいです」
そばと酒 煩悩のかたまり 一瓢亭
大阪府大阪市天王寺区四天王寺1-14-17
090-8930-3574
月~土 11時―14時、18時―22時 定休:日
バックステージ 大阪(ホテル&バー)
「ホテルの1Fがバーになっていて、2Fに宿泊しているバックパッカーさんたちも飲みに来るようなお店です。世界中の人が集まり、かなり多国籍の方たちが入り乱れて飲んでいる。みんな旅行中なので、テンションがノリノリ(笑)。『明日は京都に行く』『次はタイに』など、旅行話も楽しくて、自分も旅に出ている気分になってきます」
「バックステージ大阪」
中央区神津1-2-20
06-6762-0111
writing
さいあき
上町台地在住ライター&編集者。海外旅行雑誌、住宅情報誌ほか、「住む」「旅する」「暮らすように旅する」記事、インタビュー記事をメインに執筆。絵本、実用書をメインに書籍編集も手掛けている。